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南印度洋行 社長と社員のつぶやき
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二代目デビュー
43年生きているとかなりな量の本を読んでいることになりますが...

学研の動物図鑑 と プロレススーパースター列伝 ほど
読み倒す本はこの先現れないと思いますが服部です。



今日は久しぶりに新商品をご紹介させていただきます。

M7Sです。
20160219095908960_R.jpg



すでに石の小片を磨いた見本の板を何人かのお客様に
お見せしておりますが...ほとんどのお客様が..

おっ! M7S復活したの?
と言ってくれました。

実は今回のM7Sは二代目でして...
初代のM7Sは処々の事情で10年ほど前に閉山したままです。

正直、10年ほど前に終わった商品の名前を
お客様が覚えてくれていたことに驚きましたが..
それだけやはりインパクトのあった石だったのかと実感しております。

ちなみに

こちらが佐山
M7S(初代)_R



こちらが三沢です。
M7S(二代目)_R



いきなり佐山とか三沢とか
月曜日からまたわけの分からないことを言い始めたと思われた方は
どうぞそのままにしておいてやってください。

まあ、とにかく..

初代に負けるなよ、二代目。



服部(←それでも佐山派)
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新入社員、現る。の巻(研修編)
引き続きご覧いただき誠にありがとうございます。
それでは研修編でございます。


昨日5月23日(月)に服部社長に同行で、
横浜の乙仲さんのところへ訪問させていただきました。

20160524_112123.jpg

入社して2週間が経過していましたが、
お恥ずかしながら自社の製品としての現物を見たことは無かったので、
とても新鮮な気持ちになりました。

同時に、こうして大切に製品を運んで下さる乙仲さんをはじめ、
仕入先であるインドの工場の方々、船舶業者等、製品に関わる
全ての方々のありがたみも強く感じました。


私共南印度洋行は自社で製品を作ったり、加工したり、また運んだりとはできないので、
人と人との関係を大切にすることが重要となってまいります。


ですので、各関係者様のお声に応えるべく取り組んでいきます!
なのでどしどし、遠慮なくお電話ください。


まずは私平川が対応致します。
そして名前を覚えていただけると私は泣いて喜びます(>_<)

続いて一人で注文受けられるようになると背中に翼が生えるほど
ファイトいたします!

是非、早く翼が生える様にしたいですね。


最後に服部社長、並びに乙仲の皆様、
お忙しい中私のためにお時間をいただきありがとうございました。






新入社員、現る。の巻(自己紹介編)
南印度洋行のブログをご覧の皆様


はじめまして。平川雄基(ひらかわ ゆうき)と申します。


先日5月11日に入社しかれこれ2週間ほどたちますが、
まだまだわからないことがわからない状態です。。。

ですので、暫くの間はお問い合わせにお答えできかねますが
社内では「わかんねーわかんねー」と言いながら戦力となれるよう

孤軍奮闘しておりますので良ければ「あの南印度洋行の新人も頑張ってんな」と
温かい目で見ていただけると幸いです。




少々ご挨拶が長くなりましたが、
簡単に自己紹介させていただきます。


平成2年生まれの現在26歳独身男です。
このまま独身ロードを全力で突っ走ろうと考えています。

私の簡単な経歴をお伝えすると、
24歳で大学を卒業し、
これまでに2社を約1年ずつで退職し
現在の南印度洋行に至ったわけでございます。

なので私は今度こそラストチャンスと捉え、この会社に骨を埋めるつもりで入社致しました!!!
その気概だけでもご理解いただきたく存じますm(__)m


私の趣味は見るのもするのも野球です。
するほうは、ほぼ毎週日曜地元で草野球をやってます(最近は右肩大爆発のため満足のいくプレーができず。。)

見るほうはプロ野球が好きで、生まれも育ちも千葉県なのに
オリックスバファローズのファンでございます。

南印度洋行に入社できたことと同じくらい不思議なご縁があるものです。


ということで簡単に自己紹介させていただきましたが、
何を書こうか迷ったので過去のブログを見てみるとこんなものを発見しました。
DSC05936_R_20160524190656882.jpg
DSC05936_R_20160524190656882.jpg

(2014年4月30日のブログより参照)

なんと珍しい石材があるものですね。
ブログによると、「記念碑」として作ったとのこと。

そんな記念碑を日々大切にしつつ業務に勤しんで参ります。
それではつぎは研修編です。続けてご覧くださいませ。


20周年
えー...

実はわれわれ...

南印度洋行ですが...

今月...

めでたく...

20周年目に突入いたしましたっ
(はいっ、拍手。)

「ウチラの業界は10年はやってこないと何言っても聞いてもらえないからね。」
とこの業界に入りたての頃に先輩に言われたのを覚えておりますが...

ウチの会社、20年。
その倍っす。

もう聞いてもらえまくり! かと言えば

そうでもない。 としか言いようがありません。

先輩、あれってホントだったんでしょうか?

まあ..それでもとにかく20年。
本当に皆様のおかげでございます。感謝感謝。


ところでウチの常務(市橋 俊)が先日こんなTシャツを着てきました。

jht.jpg


....。
俊...それ...M.Jって...あのマイコーか?
マイケルジャクソンなのか?

うん。
俺..マイケル好きだし!

学生時代 部屋とYシャツと私 を繰り返し聞いていた
常務とはかれこれ25年の付き合いになりますが...
マイコー好きだと初めて知りました。

.....。


常務、ホントか?

服部
南印度洋行の南印度旅行2017 ~プロジェクトスタート~
2015年に開催されました「南印度洋行の南印度旅行」を来年の冬に再度開催させていただきます。

とは言え...

まだ、参加人数も行く場所も基本的にはなーんも決まっておりません。

ただチャンクマと言っているのは...

バナナリーフはマストだな..と。

こんな感じのリーフです。
hsfg (4)



前回の訪印時にお店の当りもつけておきました。


こんな感じの店です。
hsfg (2)


メニューの相談もしておきました。


こんな感じのメニューです。
hsfg (1)


スタッフ一同、皆様のご来店をお待ちしております。
hsfg (3)


服部
沖縄と先祖の話                    

注意:長いのでよほど暇な方のみお読み頂けたらと思います。

■はじめに
 この仕事をしていると「なぜ人は墓をつくるのか」という根本的なことを考えるのは私だけではないと思う。
沖縄旅行のおり、玉陵(タマウドゥン)という琉球王家の墓や、「神の島」とよばれる久高島の墓所を見学し、改めて、日本人の生死感と埋葬に興味をもった。
 そこで、私が入社時に服部から頂いた家宝の『新訂・先祖の話』(柳田国男著 初版)を読みながら、「なぜ人は墓をつくるのか」という問題を改めて考えてみた。

なお、私は民俗学の専門家ではないので、誤った解釈があるかもしれない点を予め述べさせて頂きたいと思います。

■沖縄のお墓

沖縄は非常に美しい石の文化をもつ地域である。それは城(グスク)や庭園にもっともよくあらわれている。
地元の石灰岩でつくられており、本当に美しい、世界に誇れる文化財である。
thumbnail_IMG_0354[1]

沖縄の墓は巨大で、人が住めるほどのものが多く、一部の亀甲墓は巨大な古墳のようでさえある。
そして、やはり石造りのものが多い。なぜこのような巨大な墓が多いのかといえば、その理由は死者の埋葬方法にあるようであったようである。沖縄では、風葬が一般的な埋葬方法であった。

写真は、琉球王家の墓(タマウドゥン)である。
thumbnail_IMG_0451[1]
遺体を安置して10年以上してから、、白骨化した遺体の処理「洗骨」をおこない、骨壺におさめる。
タマウドゥンでは部屋は3つあり、遺体を安置する部屋、洗骨後に骨壺を収める部屋が二つがある。
死体を安置するため、また一族の遺骨を安置するため、石室の面積は大きくなる。

しかし、一方で庶民はタマウドゥンのような破風墓や亀甲墓のように巨大な墓をつくることはできなかったという。
庶民が覇風墓や亀甲墓をつくることを許されたのは明治以降である。
庶民は多くの場合、洗骨などは行われず、遺体は共同の風葬場所(葬所)安置したままであったと思われる。
つまり風葬というのは、二種類あったと考えられる。

琉球地方の風葬には大きく分けて二通りの方法があった。
ひとつは特定の洞窟、山林を遺体を安置してそのまま共同の墓地とする原子的な方法と、
亀甲墓や破風墓の中に棺を一定期間安置し、風化して白骨化した後に親族が洗骨を行い、
改めて厨子甕におさめる方法である

wikipedia 風葬

もっとも、庶民の墓所においても遺骨収蔵の甕などは発見されているので、
両者の折衷的な埋葬方法もあったと考えられ、時代によっても変化したと考えられるので、単純に二分できるものでもないだろう。


亀甲墓  写真はwikipediaより
中国の福建省から伝わったとされる形式のお墓の形状。巨大な古墳のようにみえる
Okinawa_turtle_back_tomb.jpg


久高島の墓所
では1960年代まで風葬が残っていたとされている。
写真は久高島の墓所。さながら住宅地のような佇まいの墓所である。
thumbnail_IMG_0436[1]



■祖霊信仰:仏教教化前後の埋葬と生死感

 現在においては風葬というのが、沖縄特有の風習のようにも感じられるが、このような葬送はかつては全国的に普通にあったようである。むしろ、墓の下へ葬るという葬送形式はもっとも新しい方法であると柳田国男は指摘している。

「墓へ、土の下へというのがわが国では最も新しい考え方で(中略)風習に指示されてる」(先祖の話P192)

 もちろん、土葬は古代より日本でもおこなわれているので、ここで柳田国男が指摘する埋葬とは、現在のような地下納骨堂と石碑が一体となった形の埋葬方法を指していると思われる。
 では、古来の日本人は一般的にどのように遺体を葬送していたのだろうか。

「遺骸を永久に保存する慣行が、一部上流の間に存したことは確かであるが、これと同種の方葬法は民間にはおこなわれず、
しかも石を勒して記念とする風も一般ではなかった」
P193
「葬送のみがあって碑を建てぬ場合、これにも樹を植えたり石を置いたりして標示をしていたのかもしれぬが、それを記憶する者が大体なくなる頃には、自然にその場所は忘れられてしまうのである。」(先祖の話 P194)

 ようするに、山、海、洞窟等の共同の墓地に遺体を安置し、風化するにまかせ、あとは場合によっては簡単な記念碑のみをつくったということである。(この記述は、土葬にしてそのまま忘れれるにまかせるというものも含まれると解される。)
 例えば、下越後では新しい埋葬地の上へ若木を植えるという風習があったという。また、海岸等から小さな小石を拾ってきて置く風習は国の多くの場所にあったという。東北などでは「早く知れなくなるのがよい」と年忌のたびに、盛り土を小さくしていくところもあったという。  

 現在からみると一見粗暴な風習のようでもあるが、「これは亡骸を幽界の代表者として保存、
また奉仕するつもりはなかったからである。保存すべきものを粗末にしていたのでは決してない。」 
(先祖の話 P244)。
まつるべき霊は別にあり、遺体は、速やかに消えてしまうことが重要であったということである。
自然に故人を忘れてゆき、清い安らかな心で故人の霊に接したいという考え方であったという。
また魂も忘れられることで自由にこの世とあの世を行き来するという考え方もあったようである。
 これは比較的現在の樹木葬に近い考え方かもしれない。

 また、別の方法として、遺体の安置場所とは別に墓所をつくり、そこで祖先を祭るという両墓制という形式をとっていたという。
ここで重要なのは、日本人にとっては、もともと墓所というのは、埋葬場所ではなく、祖先を祭る場所だったということである。
墓所は祭場だったのである。

 いずれにせよ、遺体と死者の魂を別のものと考えていたのがポイントである。古来の日本人にとっては、祭るべき魂は遺体とは別にあった。ただし、死んですぐの魂は、身近な存在であり、場合によっては危険な面もある。それが、時間を経て、あるいは祭りや儀式をへて、人格や個性がなくなり、一族や国を守ってくれる存在になるのである。
 これを祖霊信仰という。
 
 この祖霊信仰は仏教教化以前からある信仰であり、仏教による教化がすすんでも、消え去ることはなかったという。
人が死んで極楽に行ったり、別のものに生まれ変わるという仏教思想は、一面では死への恐怖や、不遇の霊魂への不安や恐怖を抑えるとう効用が大いにあったが、一方で、国や一族をまもってくれる祖先が遠くへいってしまっては困るという考えもあった。祖先はお山や海にいて、時に招くものだったのである。
 そこで祖霊信仰がある程度仏教化し、あるいは仏教自体が日本的に変化していくなどして、折衷的な形へと変化していった。

 「33回忌」の「とぶらいあげ」ということは、あるいは双方からの譲歩であって(中略)これがおおよそ「よいころ合いの区切り」と認められ(中略)私多き個身を捨て去って、「先祖」という、一つの力強い「霊体」に溶け込み、自由に、家のためにまたは国の公のために活躍し得るものと、もとは考えていた(先祖の話P196)

 ところで、祖霊信仰はかならずしも日本独自のものではないと思う。私の中国南部蘇州出身の友人で「家に先祖を祭る棚がある」と教えてくれた人がいて、「先祖って誰?死んだおじいさん?」と聞いたところ、「おじいさんじゃなくて、もっと偉い人」「だれでも先祖になるわけではない」と言われ、混乱したことがあるが、上記の記述を読むとよく理解できた気がする。
 友人のいっていた「祖先」とは柳田国男の定義する「祖霊」と同じか、近いものであり、もっと一般化した神様のような存在を指していたのである。


■「なぜお墓をつくるのか」
 私が沖縄の巨大な墓所を見た時の感動は大きく、「日本古来の葬送形態を残しているもの、正統なもの」という印象を受けた。
だが、こうして考察してみると、沖縄が原初的な風葬を比較的最近まで残していたのは確かであるが、すでに述べたように、亀甲墓は中国に原型があるものだし、今見られるような巨大なお墓が中世以前から一般的に作られてきたわけではない。シーミー祭も中国に原型があるものである。

 また「沖縄では三十三回忌を境にして、霊が御神になると信じられている」(先祖の話p173)のように、仏教と祖霊信仰との融合もみられる。 沖縄の葬送方法は、原初的な祖霊信仰、仏教、中国の影響などをうけて、時代ととも、に変遷してきたものである。

 また、沖縄から始めた考察であるが、日本全国の葬送も同様に、時代の変遷とともにかなり変化してきたということがわかった。
 何が伝統で、何が正統かとは簡単にはいえないのである。
 
 確かに言うことができるのは、その変化をもたらしてきたのは、生きているものの思いや考えであるということである。
死者の魂への畏怖や愛着である。
 お墓が死んだ者にとってどのような役に立つかは一度死なないとわからない。だが、生きていく者の「死壊の恐怖」「死者への信愛の念」「一族繁栄の願い」など、さまざまな心理の働きを安らかにするための場として存続してきたのは確かである。
 
「なぜ墓をつくるのか」という問いの答えはそのようなものではないだろうか。
 不完全ながら、これを一旦の結論としようと思う。


文責  めんそ~れ・前野



じゃねえし。


日本に戻ってまいりましたが服部です。

なんでも口に入れたい盛りの六か月のウチの娘は
触るモノみなビチョビチョにしていくわけですが...

気づけば僕のi PADも餌食に。
部屋の隅の方で娘がピチャピチャと..。

慌ててウエッティなiPADをとりあげると画面にメッセージが...



dfq.jpg




了解しねえし。

ケーブルじゃねえし
てか娘、正常に動作してるし。

服部